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■トービー・ジーマに於ける芸術的または肉体的栄光と挫折  Part - 3

ハイ!フォークス!

寒いけど春ですね!
皆さんいかがお過ごしでしょうか。

僕は‥
元気じゃないけど元気です!

だって‥
つい5分前‥
大量に書いたこのブログの文章‥
写真とか貼っつけたりとか‥延々やったのに
変なボタン押したら全部!ぜぇ~んぶ消えちまったのさ!
だから、元気じゃないけど‥元気です! いや‥まじで。

ではまぁ‥ ご挨拶もそこそこに
先を急ぎます。

今回のブログ‥すんごい長いんで。

ロックンロールとか、マージー・ビートとか「別に‥」と言う方は
読まないほうが良いかも知れません。

でも、もしかしたらすごく面白いかもしれません。
んー、それだけは僕にはわからないなぁ。

それでは早速はじめましょう。


 ■トービー・ジーマに於ける芸術的または肉体的栄光と挫折  Part - 3

前回は、マージー・ビートはさておき、殆どが映画“アメリカン・グラフィティ”について語ることに終始してしまいました。
でも、それもいた仕方なしと考えています。

このまま書いていけば、その筆はいずれマージー・ビートにまで及んでいくことは自明のことですし、何を論ずるにしても、その出自を明らかにしないことには論じ評したことにはなりません。
まぁ、ここは慌てず、じっくりと書いていこうかと思います。


前回の “トービージーマに於ける~Part - 2” を書くにあたり、自分が音楽と出会い、
その後バンドを結成し、色々な人たちと出会い、そして今日に至っている道筋を振り返ってみました。
その作業は実に楽しさとスリルにあふれていましたが、長い道程の果て、事の発端にまで遡ってみれば、それはとある日に、感性が “ふっ” とキャッチしたほんのささいな出来事に過ぎなかったのだと気付きました。

絵を描く人、山に登る人、マラソンをする人、バイクに乗る人、医学の道を歩む人、世界に飛び出して行った人、起業した人などなど。
あげていったらきりがありませんが、すべては “ある日‥何気なく” その感性がそっと触れた出来事から始まっているのです。

そこに人の人生の “あや” を見ると言ったら少し大袈裟かも知れませんが、ザ・ストライクスを一緒にやってきたイカちゃん、イナッチョ、タカオ、そして音楽を通して出会ったすべての人たち、そして現在のメンバーであるエツコ、純、ユウイチ‥
僕が まだ思春期予備軍だった13才の “あの日” に、その青臭い感性がキャッチしたものが、例えば “アメグラ” や “ロックンロール” ではなく、 “サーフィン” や “ファッション” だったとしたら、その後彼らの誰一人として、知り合い、深く関わるなんてことはなかったはずです。

もちろんこれは、僕のほうから見た場合に限ったことではありません。
相手にとっても同じことが言えるのです。
“ある日‥何気なく” イカちゃんの感性がビートルズをキャッチしたからこそ、一つ年下の僕らがやっていたバンドの練習を覗きに来たのだし、エツコや純の感性が60年代の音楽や、自身でバンドをやろうとした “あの日” の感性・価値感があったればこそ、現在のヤングフォークスもあるのです。

僕はいわゆる “二世” や “世襲” を信じません。
一番近くにいる親から価値感を受け継ぐなんて、ちっともドラマチックじゃない。
僕が音楽の扉を開くまでには、それこそ100個くらいの扉を開けたり閉めたりしてたどり着いたのだし、誰に強制されたわけでもありません。
また、そういった価値感を育む環境が幼い頃からまわりにあったわけでもないのです。

にも関わらず、ミュージシャンのようなものになって、こうしてこの歳までプレイしたり楽しんだりしている。
僕のまわりにいる音楽仲間や、ライブハウスなどで見かける顔馴染みの連中にしたって殆どが同じようなものだと思います。

勿論、これはミュージシャンだけに非ず。
ロカビリーが大好きな寂しがりやのテディボーイは、一体何をきっかけにしてエルビスやカール・パーキンスに出会ったのでしょうか。
今だにガールズ・ポップスに夢中なボビーソクサーは、恋と涙の芳紀17歳の時に、どうやってロニーやレスリーの歌声を耳にしたのでしょう。
ある日突然ラジオから流れてきたのでしょうか。
それとも、家にはそんなレコードしかなかったからでしょうか。

たぶんそれは‥
自分でたどり着いたのです。
先輩やお姉さんに連れて行ってもらったパーティーでだったにせよ、映画の中の素敵なシーンで流れていたからにせよ、そうした音楽にたどり着いたのは自分がその扉を開けて入っていったからです。

僕らの世代ならそれこそ音楽は百花撩乱。
テクノ、スカ、レゲエ、パンク。
デビッド・ボウイ、ボーイ・ジョージ、ジョージ・マイケル、マイケル・ジャクソン、ジャクソン・ファイブ。
YMO、CCB、ARB、TMN、TMR、RC、LR。
竜童がいたり、リューベンがいたり、ユーミンがいたり、フーミンがいたり。
ナゴム系、渋谷系、小椋圭。
ありとあらゆるジャンルがあり、新しいアーティストが次から次へと出て来た時代。
誰もが感性に従い、そっと手を伸ばしてつかんだ音楽。
そこにうっすらと付いた指紋の跡を見てみれば、他に一つとして同じものはない。
若い頃に出会った音楽というのは、言うなれば正直で純粋な自分を写す鏡です。

至極当たり前の話しをしているので、訝しいと思う向きはご容赦下さい。

中学生の頃、父親がジャズ・ミュージシャンをしていた友人がいました。
初期のシティー・スリッカーズに在籍していたこともあったサックス・プレイヤーで、その当時はソウル系のバンドを率いて活動していました。
お名前は差し控えますが、いわゆるトップ・プレイヤーです。(勿論!現在もそうだと思います)

その友人の家に遊びに行くと、それこそレコードは山のようにあるわけです。
ざっと4~5千枚はあったでしょうか。
エレキ・ギターなんかも普通にそのへんに置いてあったり、楽器が入っていると思われるケースなどもそこかしこに雑然と置いてありました。
その頃の僕は、後に自分が音楽をやるなんてことは夢想だにしませんでしたから、特にそれらに触れてみたりすることもなく、専ら映画の話しをしたり、当時としてはまだまだ珍しかったビデオ・デッキなどでビートルズの武道館公演の映像を観せてもらったりしていました。

たまに在宅中の彼の父親に出くわすことがありましたが、きまっていつもTシャツにジーンズ姿、髪は長髪で肌は一年中日に焼けていました。
彼の母親にしても、今思えばその姿は、まるでデビューした頃のリンダ・ロンシュタットのようでした。
79年頃の話しです。

今思い返してみても、その友人にはそういった環境をひけらかすようなところは少しもありませんでしたが、それも当然の話しで、僕ら一般的な青少年はだいたい中学生くらいでロックや音楽に目覚めるものですが、彼にしてみれば、音楽はいつでも、生まれた時からずっと家の中に満ちあふれていたのです。

その友人は、その後もバンドなどはあまり熱心にやらなかったと記憶していますが、仮にもしやっていたとしても、彼はわざわざ扉を100個も開ける必要はなかったでしょう。
せいぜい3つか4つ開けるだけで、そういった価値感には容易にたどり着けたはずです。

ほら、こう書いてしまうと、ロックンロールや、ブリティッシュ・ビート、ビートルズに関するマニアックな話し、バカラックやディラン、フレンチ・ポップスでも昭和歌謡でもいい、そんな共通言語で会話が出来るというだけで、僕たちは150個目くらいの同じ扉を開けた者同士というわけです。
ましてや‥ 
マージー・ビートなんて。

だいぶ長い前書きになりました。
不悪。
では、そろそろはじめましょうか‥

あ、前書きの比じゃないくらい長いです‥今回も。
ですから、本当に‥「ロックンロールやマージー・ビートは別に‥」という方は
この後の扉は開けなくていいかも知れません。


ではのちほど。
出口のあたりで待っています。


 『♪ロック・アラウンド・ザ・クロック』

相も変わらずロックンロールの話しをすることが多い。
もちろん、50年代や60年代の音楽という意味で。
20才も年下の子と話したかと思えば、今度は20才も年上の人と話す。

以前に読んだ三島由紀夫の随筆の中で「戦争に行った人間は、戦争の話ししかしない」といったようなことが書かれていたが、ロックンロールやポップスの洗礼を受けたものはそれでいいのだと思う。

とは言っても、50年も昔のものについて話しをしているわけだから、それぞれの世代によってその直面の仕方は自ずと違うものである。

だから僕は、ここで前回に引き続き、僕の世代が直面したロックンロールの状況を整理しながらその “証言” をしてみたいと思う。
そのことについて書かれた書籍でもあれば、是非読んでみたいものだが、その在処をいまだ僕は知らない。

それでは前回予告した通り、僕にとっての原点であり、その誕生から幾度となく若者の魂を揺さぶり続けて来た不思議な運命を背負った曲
♪ロック・アラウンド・ザ・クロックについて話してみたい。


 其の一 青春No.1

「ワン、ツー、スリー、フォー、おいロック!」

これは昭和30年に日本で最初に♪ロック・アラウンド・ザ・クロックが、海の向うアメリカから聴こえて来た当時のことを振り返って言った平尾昌晃の言葉である。

1982年に発行された音楽雑誌・プレイヤー別冊 “ OUT PUT ” の中で、ロックンロールが誕生したとされる1955年頃の日本の音楽状況について語ったインタビュー記事から引用したものだ。

実際の文章は
「するとそのころですね、ちょうどワン、ツー、スリー、フォー、おいロック!という‥♪ロック・アラウンド・ザ・クロックがまず入ってきたんですよ ~ (省略) ~ それであれ‥と思ってね、すごいショックをうけたわけ、今までウエスタンでバイオリンが入ってスチールギターが入ってやってたでしょ、それでこれじゃバイオリンなんていらないんじゃないかという話しになってね」
というような内容になっている。
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「ロカビリー歌手だった若き日の平尾昌晃」


僕はこの逸話が好きだ。

本当の歌詞は「One, two,three o'clock, four o'clock rock」と、日本人にとっては相当になじみ深い英語の「ワン、ツー、スリー」で入っておきながら、突如舌がもつれてしまいそうな「オクロック、フォー、オクロック、ロック」と早口で言うことを強いられる。
それでもこの、なんとも弾んだ調子で楽しそうな、それでいてカッコ良くもあるこの歌を歌いたい衝動はどうにも押さえられない。
そこで誰ともなく言い出した「♪ワン、ツー、スリー、フォー、おいロック!」
となったのだろうと大体の察しはつく。
“ロック” という形而上のものを擬人化して「おい、ロック!」と呼びかけてしまう自由さ、または押さえようのない感情の発露は、じつはこれこそが、この後に僕が延々と述べたてていくロックンロールの正体なのかもしれない。

この歌を歌いたい衝動。それは僕にもあった。
あの1980年の春から秋にかけて500回くらい歌ったろうか。
初めて人前で歌を歌ったのもこの曲だった。遠足だか、学校の行事だったかは忘れてしまったが、とにかくバスの中で、クラスの皆の前で歌った。
決して顔には出さなかったが、興奮で胸はいっぱいになり、恥ずかしさとまんざらでもない気分に、その日一日は包まれていた。

♪ロック・アラウンド・ザ・クロックは、1954年にビル・ヘイリーと彼のコメッツによってリリースされ、ロックンロールの曲としては最初にビルボード・チャートで1位を獲得した曲である。
細かい説明は後述するとして、前回に書いた映画・アメリカン・グラフィティの2枚組サウンド・トラック盤
1枚目A面の1曲目。
収録するには、ここしかあり得ないといった堂々のポジションに収まっていた「おいロック!」である。
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「1954 US SINGLE Decca」

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「1963 日本盤 シングル Decca」



僕がこの曲を初めて聴いたのは、小学校5年生の頃(1976年)にテレビで観た “ぎんざNOW!” という番組でのことだったと記憶している。
この番組は、TBSで月曜日から金曜日まで、毎日夕方の5時から生放送されていた情報番組で、洋楽のランキングや、ロックバンドの生演奏、素人参加のお笑いコンテスト等、ティーンに向けた情報ならなんでも紹介するといった当時の人気番組だった。

スタジオの観覧席には、学校帰りの高校生が学ラン姿のまま、ほぼ毎日のように映し出されていて、所謂 “不良” と呼ばれる若者の姿を見たのは、おそらくこの時が初めてだったと思う。

洋楽を紹介するコーナーでは、当時のオリジナル・コンフィデンス、通称 “オリコン(現オリコン・エンタテインメント)” の社長・小池聰行を毎回迎えて、英、米の最新音楽情報を割ときちんと紹介していたように思う。
この当時、ラジオや雑誌ならともかく、関東ローカルとはいえ、テレビで、しかも夕方に洋楽情報をオンエアーしていたという事実は、その後どこで語られることもないが、この番組を観ていた世代にとって、その影響は計り知れない。
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アメリカのバンド 、チープトリックが、日本でのみ発売されたライブ・アルバム “チープ・トリック at 武道館” の、日本からの輸入盤が売れたことによって本国での成功を掴んだことは有名な話しだが、この時の武道館にかけつけたファンの殆どが当時の女子中高生だった。
音楽雑誌・ミュージック・ライフなどのキャンペーンが大きな要因の一つと言われているが、その前段として “ぎんざNOW!” に於ける、この洋楽紹介コーナーが何かしらの作用を起こさせていたのはほぼ間違いないだろう。

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「♪甘い罠 で起こる感動的なシーン(客席の女の子たちがレコーディング・バージョンで聴けるこの曲のディレイするヴォーカル・パートを自発的に歌い大合唱となる。日本に来る前のチープ・トリックはライブハウス周りクラスのバンドであり、自分たちの “人気” と “成功の予感” を、まさにこの瞬間知るのである)は、DVDなどで観る度に涙が止まらなくなる」


“チープ・トリック at 武道館” がリリースされた1978年の前の三年間、1975年から1977年まではイギリスのアイドル・バンド、ベイ・シティ・ローラーズの人気が最高潮だった時だ。
日本での人気も凄まじく、丁度その時期の “ぎんざNOW!” では、毎週のようにベイ・シティ・ローラーズの話題を取り上げていたものだ。
そして、その熱狂の真っ只中にいた一人の少女が僕の姉である。
“ぎんざNOW!” を入り口にして、ロックに目覚めるというのは、僕に言わせれば、この頃のローティーンにとっては常套なのである。

とにかく、 “ぎんざNOW!” は、ごく当たり前の日常として、毎日々々何かしらの音楽を流し続けていた。
洋楽を紹介しない曜日でも、アイドル歌手や、アマチュアのバンド、フォークも、ハード・ロックも、要は大人が聴く演歌以外はすべてここから聴こえてきた。
僕の記憶にはないが、キャロルやクールス、チェリー・ボーイズといった日本のロックンロール・バンドも、相当な回数この番組に出演していたようだ。

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「チェリー・ボーイズ 歌詞が強烈だったせいかYouTubeで数年ぶりに聴いたら殆どの曲が口ずさめた。」


遠い記憶なので内容は忘れてしまったが、この番組の中に “青春No.1” という名前のコーナーがあった。
その僅か5分位の短いコーナーのタイトルバックに、この♪ロック・アラウンド・ザ・クロックが流れていた。

この頃の僕は、まだまだ進んで洋楽などを聴くような子供ではなかったし、この “ぎんざNOW!” にしても二つ年上の姉が毎日観ていたのを、ただ横で眺めていただけにすぎない。
それでもこの時、その僅か数秒間流されただけの♪ロック・アラウンド・ザ・クロックを聴いて、単純に「カッコイイなぁ‥」と思ったのである。

音楽を聴いて “カッコイイ” と感じたのは、これより前には小学2年生の時に聴いたフィンガーファイブの歌くらいしか記憶にないが、でもこれは多分にリードシンガーだった晃という少年が、その長髪が、さらにそのサングラスが “カッコイイ” のであって、単純に曲としての “カッコ良さ” でいえばこの ♪ロック・アラウンド・ザ・クロックが初めてであったように思う。

こう書いてしまうと、何か早熟とか、ませているとか思うかもしれないが、何を言っても小学5年生だ。
その感性のキャッチは、バットとグローブ、スーパーカーやアメリカン・ヨーヨーによって、その後いとも簡単に忘れられていくのだし、まだまだこの頃は “1950年代” や “ロックンロール” なんて、口に出して言ったこともなければ、頭によぎったことさえなく、当然のことではあるが、そういった概念があることさえ知らなかったのだ。

ついでに言うのであれば、この “ぎんざNOW!” という番組の中で司会をしていた、せんだみつおが得意にしていたエルビス・プレスリーの♪ハウンド・ドッグを「ユエンナキバラ、ハ~ンドッ~グ!」と歌うギャグのようなものにさえ、可笑しさとカッコ良さを感じていたのだ。
それだけの話しなのである。

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「せんだみつお」


とは言っても、小学5年生の子供に “カッコ良い” と思わせるこの曲は、この頃にわかに高まりを見せ始めていたオールディーズ・リバイバルの機運の中、まだまだ “オールディーズ” という一括りでロカビリーもガールグループも、ドゥーワップも下手するとリバプール・サウンドまでもを含めて呼ばれていた時代にあっては、絶対的に信頼できる名題役者のような存在であった。

音楽が新しい響き、手触りとなって大衆に溶け込んでいく時、それを象徴として伝播していく曲というものがある。
例えば60年代のフォーク・ブームの時はピーター・ポール&マリーやボブ・ディランの♪風に吹かれてなどがそうであるように、ボサ・ノヴァならアストラッド・ジルベルトの♪イパネマの娘、ハード・ロックならディープ・パープルの♪ハイウェイ・スター、パンク・ロックだとセックス・ピストルズの♪アナーキー・イン・ザ・U.Kなどであろうか。

1970年代に起こったオールディーズ・リバイバルブームにとっては、この♪ロック・アラウンド・ザ・クロックが ”またしても” その役割を担っていたのだ。

“またしても” と強調したのは、この曲がその大役を背負うことになったのが、じつはこの時が二度目であり、その一度目とは、今日あるロックそれ自体のそもそもの事の起こり、ロックンロールの誕生その時だったからである。

次の稿では “その時”
時代を1955年にまで遡ってみようと思う。


 其の二 若者文化 

若者文化。
このなんとも味気ない言葉には、そう長い歴史はない。
チャールズ・ディケンズやジェーン・オースティン、スコット・フィッツジェラルド等、百年~二百年前の英米文学を読んでみれば判ることだが、かの時代の若者たちの遊びの種類の少なさには、今日、もう選びきれないくらい多くの娯楽を享受している僕たちからすると背筋を正さずにはいられない思いだ。

勿論、ダンスや遊興などがなかったわけではないが、それは大人も含めた遊びであり、特に若者 “だけ” の価値観や文化ということでいえば、1950年代半ばに起きたロックンロールの大流行まで待たなければならない。

1971年にアメリカで公開された映画 “ラスト・シヨー/The Last Picture Show” は、このロックンロール登場以前の若者たちの姿を捉えるのに恰好のサンプルとなり得るだろう。

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「ラスト・シヨー '71 米」

鬼才・ピーター・ボグダノヴィッチ監督による青春映画の名作といわれているこの作品は、全編モノクロで撮影され、倦怠に満ちた街や、そこに暮らす人々の姿や内面までをも写し取るのに見事な効果を見せている。

物語の舞台が、1952年のテキサスの小さな町ということもあるが、登場する若者たちは皆、浮かれもせず嬉々とした表情さえ浮かべない。
クリスマスに、町の集会所のようなところで行われるダンス・パーティーのシーンにしても、そこで演奏されているのは中年のカントリー・バンドによるテンポの緩い♪Red Hot River Valleyだ。
そしてその会場には、大勢の年寄りたちと共に、主人公ソニーの父親や、ソニーの親友のガールフレンド、ジェイシーの母親までもがダンスに興じたりしているのだ。

映画アメリカン・グラフィティと対比させたところで何等の立証性もないが、もしこの映画の舞台設定が1955年以降だったならば、このシーンに大人の影はなく、音楽も当然これよりは激しいものになっていたはずで、何より自然に描こうとするならばロックンロールが演奏されているはずだ。
さらに、そこで踊っている若者の顔には、あのアメリカ人得意の悪戯っぽい笑顔がなくてはならない。

僕がこの映画をリバイバル上映で観たのは、確か18歳くらいだったと記憶しているが、その時はこの映画の紹介記事に作為的に書かれた “アメグラ的な映画” であるといった宣伝文句につられてだった。
ようするにジェフ・ブリッジスのリーゼントや、ジェイシーを演じたシビル・シェパードのロールアップ・ジーンズにサドル・シューズ姿といった写真にまんまと騙されたのだ。

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「左からティモシー・ボトムズ ジェフ・ブリッジス シビル・シェパード」


だがこうして歳月を重ねて来てみれば、価値感の変遷とはおそろしいもので、今はこの映画の “良さ” をストレートに感じることができる。
退屈で封建的な日常を演出する為の手段として使用されていた、ハンク・ウィリアムスやハンク・スノウ、ピー・ウィー・キング等の挿入歌さえも、現在ヤングフォークスのようなバンドをやっている身としては、これはこれで心地よく耳に響いてくる。
何よりも出演している役者たちの演技の上手さには脱帽するほかない。

そして、この映画ラスト・ショーの時代設定となっていた1952年から3年後。
ある一本の映画が公開されたことによって、いよいよロックンロールの大ブームが巻き起こるのである。

映画の名は “暴力教室” といい、その主題歌がビル・ヘイリーの歌った♪ロック・アラウンド・ザ・クロックであった。

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「ビル・ヘイリー」

思いきって言い切ってしまえば、このロックンロール誕生がもたらしたものとは、人類史上初めて若者が手に入れた自分たち “だけ” の価値感・文化の誕生とも言えるのだ。
要するに “若者文化” である。

ロックンロールを音楽の一ジャンルとして捉えた場合、その紀元を1952年や1954年などとする説もあるが、僕がここで語っているのはポップ・カルチャーとしてのロックンロールだ。
後の稿でも述べるが、この “暴力教室” と♪ロック・アラウンド・ザ・クロックが起こしたアクションは、その後イギリスに飛び火し、さらに遅れて日本にもやって来る。
勿論、ビル・ヘイリーがすべてを為したわけではない、開放を叫ぼうとしていた若者たちは、いずれどこかのタイミングで叫んだだろう。
この翌年、1956年にはエルビス・プレスリーも登場して来る。
ロックンロールがあろうがなかろうが、若者たちのフラストレーションはとっくに化膿していたのだ。
あとはその膿みがいつ溢れ出すかだった。
そんな時、ビル・ヘイリーがそこを引っ掻いたのだ。
ただしそれは、無意識にだった。

 其の三 Rock and Book

先にも述べたとおり、ロックンロールの紀元には諸説あるが、最も一般的に語られてきたのは以下のようなものだ。

1955年に公開された映画 “暴力教室” の挿入歌として使用されたビル・ヘイリーと彼のコメッツによる♪ロック・アラウンド・ザ・クロックが大ヒットを記録し、アメリカ全土にロックンロールの大ブームが巻き起こる。
そして、既成の価値感よりも新しい価値感を求めた若者たちがこれに飛びつき、以降、自由や開放を謳いながら今日の “ロック” へと発展を遂げた。

というのがロックンロール誕生の物語として、今日まで一般的に語られてきたパターンである。
そしてまた、この文章の終わりには、殆どの場合次のようなセンテンスが添えられる。

「映画公開当時は、そのセンセーショナルな内容から各地で暴動騒ぎや上映禁止問題なども起きた。」

と、述べている内容はただ事ではないにもかかわらず、どこか自身無さげで、まるで「役目は果たしましたよ」とでも言い終えて立ち去られたような孤立感を読み手のほうは禁じ得ない。

例えば、僕の手元にある以下のような音楽や映画に関する書籍や雑誌をくまなく読んでみたが、やはり概ね今揚げたような記述が殆どであり、上映禁止や暴動のことについては特に詳しく述べられていない。

「ロックへの視点」カール・ベルツ 著 1972音楽之友社

「ポピュラー音楽200年」青木啓 著 1976誠文堂新光社

「映画宝庫 サントラ・レコードの本」映画宝庫編集室 編 1978芳賀書店

「ロックンロールの時代」フィル・ハーディ / デイブ・ラング 著 1981サンリオ

「BOYS AMERICAN NOTES 雑学少年アメリカ百科」松山猛 / 黒川邦和 著 1983平凡社 

「ロック・ミュージックとアメリカ」林洋子 著 1989シンコー・ミュージック

「リズム&ブルースの死」ネルソン・ジョージ 著 1990早川書房

「the Roots of Rock Vol,1ブルースに焦がれて」 ピート・ウェルディング / トビー・バイロン 編著 1993大栄出版

「ロックの歴史 ロックンロールの時代」萩原健太 著 1993シンコー・ミュージック

「ぴあ映画辞典」ぴあ株式会社 制作 1994京恵出版

「フォーキーブルースな夜」 鈴木カツ 著 1999音楽之友社


それでも、この中では一番古い1972年に出版された「ロックへの視点」にこんな記述がある。

「〈ロック・アラウンド・ザ・クロック〉に刺激されて、1955年の春の終わり頃に、プリンストン大学構内で暴動が起きたとき、新聞記事はいみじくも、その事件を “熱狂的だけれども害の無いものだ” と述べていた」

さらに萩原健太氏が著した1993年出版の「ロックの歴史 ロックンロールの時代」には、以下抜粋。

「僕は何よりも、かつて1955年、映画〈暴力教室〉を上映中、ニュージャージーのプリンストンの映画館で起こったという暴動の話を思い出した。」

「50年代の〈暴力教室〉による暴動は、直後の新聞記事で “熱狂的ではあるけれど害のないもの” と伝えられた程度の事件だったようで‥」

この二人の典拠はおそらく同じものだろう。
この事が何を物語っているかといえば、1972年に出版されたものと、約20年を経て出版されたものとに、これといった違いが無いということだ。
要するに “そのこと” については不明確であり、どの記事もコンテンツはロックンロールの紀元に重きを置いているため、単純に省略されているのだ。

そして、省略はするが省きはしないために、この一連のロック誕生のエピソードには、必ずと言っていいくらい文脈の最後に
「上映禁止や乱闘騒ぎなどがあったようだ」と締めくくられ、 “ようだ” または “ようで” の部分に僅かな引っ掛かりを残す。

ただし、萩原健太氏の “ようで” には、一種の説得力と、ある種の重みは感じる。
この 「ロックの歴史 ロックンロールの時代」 という本は、“ロックンロール誕生からフィル・スペクターまで”
とサブタイトルにあるように1955年から1964年のアメリカのロック・ポップスについて
徹底調査とさすがの考察力でかなり詳しく書かれた本になっている。

バイブル的に読むならこの本がナンバー・ワンだろう。
もちろん、これだけの内容なのだからロックンロール愛好家の中では、当たり前の “定番” として認知されていることは容易に想像がつく。
行間を読めば 「徹底的に調べたが‥ どうやらその “ようだ” 」 なのであろう。

もう一冊、これも典型的だが各地の映画館で若者たちが通路に出て踊り出してしまった現象については
まだ触れていなかったので 「ポピュラー音楽200年」 から抜粋してみる。

「しかしヘイリーの名を世界的なものとしたのは、1955年3月に公開されたMGM映画〈暴力教室〉と、その主題歌〈ロック・アラウンド・ザ・クロック〉だった。映画は大都会の下町の職業学校を舞台に、非行少年の問題を正面からとりあげたもので、あまりのなまなましさから上映禁止さわぎまで起こったほど。この映画のタイトル・バックに使われたのが、ビル・ヘイリーと彼のコメッツのレコードによる〈ロック・アラウンド・ザ・クロック〉だ。これが流れ出すと、場内のヤングたちが立ち上がって踊り出したという。」

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「一瞬、園芸ホールの客席に飛び降りたレオナルド熊に見えなくもないが‥ ようやく探しあてた “場内のヤングたち” の写真。フランスのサイトで見つけた」

それにしても僕は、何度この一連のロックンロール誕生物語りのコンビネーションを目にしてきただろうか。

こういったロックに関する本は、若い頃には相当冊読んだものだが、ここ何年かはまったく遠ざかっていた。
ヤングフォークスを始めた頃から、また少しずつ読むようにはなったが、それは専らロックンロール以前のもの、例えばジャズやシャンソン、最近では “クルト・ヴァイル” や “ジョセフィン・ベイカー” といった100年近く昔のものか、アメリカのフォークや日本の関西フォーク等、比較的地味なジャンルのものばかりだ。

この稿を書くと決め、自分の原点を振り返る作業は実に面白い。と、先に書いたが、振り返って何があったかと言えばそれはロックンロールしかない。

改めて先に挙げたような書籍を読み直し、また映画 “暴力教室” も観直してみた。
以前にこの映画を観たのは、たぶん10代の終わり頃だったろうか。
民放放送の深夜映画でだった。
「ついに‥ あの、例の‥ “暴力教室” が観られるのか‥」といった気分で観始めて
待てども待てども、なかなかロックンロール映画らしきシーンが展開されないことに不満を覚えたものだ。

黒人の生徒たちがピアノを囲んでコーラスをする場面では 「ハープトーンズのように暗くてイマイチだなぁ‥」
と思った記憶がある。(これは僕にしか解らないニュアンスではあるが)
ようは、一瞬ドゥーワップを期待したのに、なんだかとても暗い賛美歌のような歌にがっかりしたのだ。

これは先に言ってしまうし、結局、調べがつかなかったのだが
この時に冒頭で流れた♪ロック・アラウンド・ザ・クロックは、映画・アメリカン・グラフィティなどで
聴いていたバージョンとは違うバージョンだったような気がしてならない。

今回観直したソフトはビデオのVHSで1983年にニュー・プリントされてビデオ化されたものだから
やはり♪ロック・アラウンド・ザ・クロックは差し替えられたのではないかと、勝手に思っている。

僕がある友人に「一番好きな映画は何?」 と質問すると、この “暴力教室” と答えた人間がいた。
その時は10代に観たきりだったから「本当?あんな暗くてしみったれた映画が好きなの?」
と返したような記憶があるが、件の “ラスト・シヨー” と同じで、改めて観直せば、やはり経年はこの映画に対する僕の評価を上げさせた。
単純に面白かったし、それになんとなく気づいたこともあった。

それは、暴動騒ぎは別として、 “なぜ!?” この映画が上映禁止になったのかという疑問への答が
解りはしないまでも、 “おそらく” こうではないのか、といった手がかりのようなものが掴めた気がしたのだ。

ここでひとつ確認しておかなければならない。

なぜ、♪ロック・アラウンド・ザ・クロックを語るのに、映画・暴力教室を語らなければならないのか。
そしてそもそも、なぜマージー・ビートを語るのに♪ロック・アラウンド・ザ・クロックを語るのかといったことも
だ。

それは、僕が、僕ら世代が、と言い換えてもいいと思うが、ロックンロールの何を受け取ったのかということに帰結していく。
ただ、楽曲としてのロックンロールのあんな曲、こんな曲を受け取ったのかと言えば決してそうではない。
ポップ・カルチャーとしてのロックンロールのあれやこれやを “ゴソッ” と受け取ったのではないだろうか。

ロックンロールがその後のロックと直に繋がっているのは、このカルチャーとしての精神に他ならず
故に、音の手触りは変化し続けてもジャズがボサノヴァに変化したようなジャンルとしての脱皮をみないのだ。

ロックンロールが誕生して、そこから今日のロックにまで繋がってきたというのに、その精神的な部分を
決定づけた映画・暴力教室については、あまりにも語られることが少ない。
それは多分にエルビス・プレスリーの存在が過去を振り返った時に1956年の辺りで、あの例のつま先立ちで
日本のお化けのようなポーズをして塞いでしまっているからだろう。

確かにエルビスの腰の動きはスキャンダラスだったかもしれないが、今からじっくり解き明かそうとしている
この映画・暴力教室は、スキャンダラスのひとつ上
“スキャンダル” そのものであった気がしている。


 其の四 Blackboard Jungle


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「暴力教室 '55 米」

1955年3月に公開された映画 “暴力教室(Blackboard Jungle)” は、その当時社会問題となりつつあった反抗する不良少年と高校教師の対立を描いた作品で、主演はグレン・フォード。
不良生徒役は、日本ではその後テレビ・ドラマ “コンバット('62米)” でサンダース軍曹を演じたビック・モローが起用された。

監督を勤めたリチャード・ブルックスは、社会派作品や文芸作品を得意としていた監督/脚本家で、1967年にはトルーマン・カポーティー原作の “冷血(In Cold Blood)” という素晴らしい作品をのこしている。

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「冷血 '67 米」

ちなみに、この “冷血” という映画は、1959年にカンザスで実際に起きた農場主一家惨殺事件の実話を基にした作品で、二人組の犯人のうちの一人、ロバート・ブレイクという俳優が演じたペリー・スミスは、劇中黒のライダース・ジャケットにリーゼントヘアーという姿で登場し、メキシコへ逃亡を謀ろうとしたり、時おり肩からギターをさげていたりするために、僕などは終始このペリー・スミスが♪ラ・バンバなどのヒット曲で知られるロックンロール歌手・リッチー・バレンスと重なって見えて仕方なかった。

実際のペリー・スミスはアイルランド人とインディアンの混血で、リッチー・バレンスのようにメキシコ系アメリカ人ではないが、単純にペリー・スミス本人も、またそれを演じたロバート・ブレイクも、容姿そのものがリッチー・バレンスとようく似ているのだ。
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「上・実際に事件を起こしたペリー・スミス 中・それを演じたロバート・ブレイク 下・何の関係もないリッチー・バレンス※バレンスは事件が起きた1959年11月にはすでにこの世には亡く同年の2月に飛行機事故により死去」

安っぽい論考を敢えて言うならば、この映画を単に映像だけで見た場合、テディボーイ二人がちょっとした悪さをしながら気ままに放浪しているといったロード・ムービーやB級青春映画のようにも見える。
だがその実は、それまでにはあまり例を見なかった動機を持たない場当たり的な殺人事件、 “理由なき反抗” ならぬ “理由なき犯行” を描いた、これもまたとんでもない問題作なのだ。

少し長くなったが、映画 “暴力教室” を撮ったリチャード・ブルックスという監督は、このような問題作を提示し世に問うていくような人物であり、決して娯楽作品として若者を鼓舞させるような映画を作ったわけではないのだ。

“暴力教室” のオープニングに挿入した♪ロック・アラウンド・ザ・クロックを選曲した経緯にしても、“今どき” の若者の好みが解りかねたため、教師役のグレン・フォードの息子が持っていたレコードの中から選んだと言われている。

映画はまず、冒頭文から始まる。
この冒頭文については後で改めて述べるが、とりあえず今は列記するにとどめたい。以下冒頭文。


アメリカの学校制度は
社会にも若者達にとってもよく整備されている
しかし最近問題になっている少年非行が
学校に飛び火する心配はないのだろうか
この映画の各シーンや事件はフィクションである
しかしあらゆる問題の解決には早期治療が有効と思われる
この「暴力教室」は
そういった意図のもとに製作された

この冒頭文が流れている間、バックにはマーチング・バンドのスネア・ドラムの音が聴こえている。
何かを予感させるような静かな導入の仕方だ。
そしておもむろに♪ロック・アラウンド・ザ・クロックが流れてタイトルが画面に現れる。

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ニューヨークのダウン・タウンにある職業高校へ、グレン・フォード演じるリチャード・ダディエが教師の職を求めて面接に来るところから物語りは始まる。

門を入ると、明らかに不良とわかる生徒たちが、何をするわけでもなくそこらじゅうにたむろしている。
次の校長との面接の場面では、この先の展開を暗示させるような、こんなやり取りがある。

校長がダディエに対し「君は声が小さいが、教室の後列まで聞こえるかな?」と指摘をする。
それに対してダディエが「大学では‥ 演劇部にいたので声はよく通ると言われました」と応え
シェイクスピアの史劇 “ヘンリー五世” の台詞を諳んじてみせるのだ。

日本ではあまり知られていないがイギリスではとても有名な台詞だ。


もう一度あの突破口へ突撃だ、諸君、もう一度!
それが成らずばイギリス兵の死体であの穴を塞いでしまえ。
平和時にあっては、もの静かな謙遜、謙譲ほど男子にふさわしい美徳はない。
だが、いったん戦争の嵐がわれわれの耳元に吹きすさぶ時は
虎の行為を見習うがいい。

〈ヘンリー五世 シェイクスピア著 小田島雄志訳 白水社 白水Uブックス〉より引用 

これに感心した校長は、その場ですぐにダディエの採用を決める。

この引用は実にうまい。
というのも、シェイクスピアの史劇 “ヘンリー五世” は、イングランド王ヘンリー五世の生涯を
フランスとの百年戦争を背景に書かれたもので、この台詞は数の上では圧倒的に不利だったイングランド軍が、その数およそ3倍の2万とも言われているフランス軍をアジャンクールで打ち破る前の、オンフルールの攻城戦の場面に於いて、ヘンリー五世が自軍の兵士たちに向って言った台詞なのだ。

捉えようによっては、数に勝るフランス軍を生徒達に、そして上の台詞にあるように “戦時” になれば虎の勇猛さでもって一歩もひかないイングランド軍をダディエ自身になぞらえているともとれるのだ。

物語りはその後、ほぼこの台詞が暗示していたような展開となる。

英語教師として赴任したダディエは、初日から積極的に不良生徒たちを更生させようとするが
やはりそれは、そう簡単なことではなかった。

中でもビック・モローが演じた一番の不良生徒・アーティー・ウェストは、不良少年というよりは
ただの犯罪者くらいにしか見えない。
現にアーティーは学校の外でも強盗をし、ダディエや他の教師に暴行を加え
ダディエの身重の妻にはストーカーまがいの行為まで行っている。

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「手前 アーティー・ウェスト」

また他の生徒にしても、女教師にレイプをしようとするなど、これはすんでの所でダディエによって
阻止されたが、いわゆる僕らがイメージする “熱血教師” ものとは生徒の荒み方のレベルが違うのだ。

劇中次々と起こる、ダディエが直面する困難の中で、もっとも重要な場面と思われるのが
人種差別に絡んだこんなシーンだ。

授業中、ふとした会話のはずみから、メキシコ系アメリカ人の生徒・モラレスのことを
黒人のミラーが「こっちは色つき同士でね」と肌の色のことで皮肉のような事を言う。
「なんだと!」とダディエが敏感に反応すると、すかさずアーティーが
「つまりモラレスが Spic だということ」と解説を入れる。

この “Spic” というのは主にヒスパニック系に使われる蔑称で、映画の字幕では “メキシコ系” と訳されているが、実際の台詞を聞くと “Spic” と言っている。

売り言葉に買い言葉で、すぐにモラレスもアーティーに対して「うるせえ」とやり返すが
この時も実際の台詞では “Mick” とアイルランド系移民に対して使われる蔑称を言っている。
もちろん、これはアーティーがアイルランド系アメリカ人だからである。

このやりとりに、少し過剰気味に反応したダディエは
「この教室では禁止しておく 今日以降は人をケナす言葉は使うな 分ったな!」
と言い放ち、必死に、そして真剣に、その後も生徒たちに人種差別の不道徳性を説いたのだが。

授業も終わり職員室に戻ったダディエは校長から呼び出される。
今起きた一件がもうすでに何者かによって、校長の耳に入っていていたのだ。
勿論それはアーティーが手を回し、当然事実とは違った内容としてである。

校長曰く。
「教室で特定の人種や宗教を中傷したという報告があった 教室で Nigger という言葉を使ったか?」

確かにダディエは黒人の蔑称である Nigger とは言ったが、もちろんこれは教育のために言ったのだ。
その事を訴え、校長にも喰ってかかり、誤解も解けたのだが、この教室からつづく一連のシーンのダディエは
終始ヒステリックに描かれている。
これは、この当時の平均的なアメリカの白人が抱えていたジレンマを映し出しているようにも見える。
同じ白人である校長は、人種的偏見は絶対にいけないと言いはするものの
次のような台詞でその心理を吐露している
「肌が黒でも黄色でもだ、白人の生徒と同じに教育しろ! わかっとけ、今の乱れた世に火を注ぐ事はないぞ!」
ようするに “事なかれ主義” というだけなのである。

校長室を出たダディエの憤慨と興奮はまだ治まらない。
そこへたまたま通り掛ったミラーを見つけると、校長に偽の報告をした事を問いつめる。
当然、ミラーは犯人ではないから、この時ばかりは普段は冷静なニヒリストのミラーも
強く反発をする。
その時、思わずダディエの口から「 Nigger 」と出てしまう。
すぐに謝罪をするものの、強い自責の念と、ダディエの、または白人としてのジレンマは
そう簡単に払拭できないことを痛感する。

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アーティーが睨みを効かせているせいか、誰一人としてダディエに味方するも者もなく
物語りは進んでいくのだが、シドニー・ポワチエが演じた黒人の生徒 “ミラー” だけは
不良生徒でありながらも徐々にダディエとの距離を縮めていく。

そのきっかけとなるのが、黒人の生徒たちがピアノのを囲んで賛美歌を歌うシーンだ。

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物陰でこの歌を聴いていたダディエが「クリスマスのショーに出ろ」とミラーに持ちかけ
「だから練習してた」と応え
二人は段々と会話するようになっていく。

荒れる若者と教師や大人たちとの対立を軸に、小競り合いや事件を絡めながら、ストーリーは結局、当初は反発していたミラーが教師ダディエを助け、一番の問題児とされていた不良グループのボス、ビック・モローが演じたウェストを屈服させるという結末を迎える。
その最後のシーンではこんな象徴的なシーンがあった。

暴れていたウェストがダディエの気迫に押され敗北したあとも、まだ悪あがきのように教室でナイフを振りまわす生徒がいた。
その最後の一人を取り押さえるために、ユダヤ人らしき生徒が教室の隅に掲げられていた星条旗を掴み、そのポールの先端で暴れる生徒の胸を付く。
衝撃に一瞬たじろぎ、ナイフを手放したところを皆で取り押さえ映画は終演となる。

「星条旗のもと、異人種が争うことなく共存して生きていく、それがアメリカである」
といったお説教でもされたような “オチ” がついて映画は終わるのだが
リチャード・ブルックスがつけたこのオチも空しく、これより先若者たちはさらに激しく
さらに声高に大人からの開放を叫び始めるのである。

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それは皮肉なことに、自身が作った映画と、自身が意図せずして “選んでしまった” 挿入歌
♪ロック・アラウンド・ザ・クロックによって
であった。

さて、残念なことにこの映画の日本でのDVD化はまだ為されていない。
ストーリーは大体今書いてきた通りだ。
それをふまえて、次の稿では僕が数年ぶりに観直して、はたと気が付いた事について述べたい。
なぜ、上映禁止になったのかというその点についてだ。

――――― つづく ―――――





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2012-03-23 : 小林ヨシオblog : コメント : 1 : トラックバック : 0
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Author:The Young Folks
FOLK ROCK.COUNTRY BAND。Bob Dylan、The Byrds、The Lovin' Spoonful、PP&M、Eagles、The Band etc.カバーセッションを経て現在はオリジナル曲中心にステージ構成。時にエレクトリック、時にアコースティックとフレキシブルに活動中!

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