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トービージーマに於ける芸術的または肉体的栄光と挫折  Part - 2

Hi!
Hi! Hi! ハイ! ハイ! ハイ!サッサ! Folllllllllllllllllks!

お元気ですか!
毎日、暑い日がつづきますが、ここはひとつ!
どうかひとつ!
サマーランドで毎日遊んでると思い込んで、やりすごしましょう!

先日の猪狩館(※読み イカリカン)でのヤンライ(※ヤングフォークスのライブの略)
楽しかったですね!
御来場いただいた皆様、ありがとうございました。
サュ―!(※サンキューの略)

大変、無沙汰いたしましたが、暑中の挨拶もそこそこに、例の‥ いつもの‥ 長いの‥
いきます。
どうぞお楽しみ下さい!

では、また後ほど。

 
 


 ■■■トービージーマに於ける芸術的または肉体的栄光と挫折  Part - 2

マージー・ビートについては、前回その誕生から “マージー・ビート”という言葉自体の認知について大凡の説明をしただけでした。
今回はもう少しその中身や背景を、特に日本国内に絞って書いてみようと思います。
勿論、僕自身が “マージー・ビート” へとたどり着くまでの “道行き” も合わせて書くことになるのですから、いつにもまして長文になることは、僕自身も、またこれを読んで下っている “あなた” も、共に乗り合わせたジェットコースターの発車前に交わす苦笑いの会釈の様な面持ちで‥覚悟してもらいたい。

『背景にあったもの』 


「1962年の夏、あなたはどこにいましたか?」
これは1973年に映画アメリカン・グラフィティが公開された当時の、映画公開に向けたキャッチフレーズである。
映画が公開された1973年から約10年前の1962年に物語の舞台を設定し、その当時の流行歌をふんだんに使用したサウンド・トラック盤がヒットするなどして、いわゆるオールディーズ・ブームのバイブル的役割を果たした作品である。

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僕が今、こうしてヤングフォークスというバンドで音楽をやっているのも、さらにはその前のストライクスにしても、すべては思春期の頃に観た1本の映画
“ アメリカン・グラフィティ” に端を発している。

その “静かな衝撃” は、ある日突然やって来て、僕の人生と、それまでの価値感をすっかり変えてしまった。
熱に浮かされたとは正にこの事で、今振り返ってみても1979年の暮れから、ジョン・レノンが射殺された1980年の12月頃までの一年間は、日常の中の現実と非現実がまったく入れ替わってしまうほど、僕の頭の中はロックンロールのことでいっぱいだった。

“静かな” と書いたのは、そこには決して、あの叫びたくなるような、そして、走り出したくなるような衝動などはなかったからで、どちらかといえば少し暗い、孤独な音楽への目覚めだったように思う。
1980年といえば、テクノポップやニュー・ウェイヴが音楽シーンをすっかり埋めつくしていた年で、ようやくポツリ‥ポツリとLPを買い始めたばかりの僕のレコード棚には “スペシャルズ” “ディーヴォ” “J・ガイルズ・バンド” “ボストン” “プラスチックス” など約10枚程度が並んでいるだけだった。
ところがある日、悩んだあげくに思いきって買った “アメ・グラのサントラ(アメリカン・グラフィティのサウンド・トラック盤)” を手に入れて以降、その棚に50年代のロックンロール以外のものが入ってくることはなくなってしまった。
僕がロックンロールの扉を開けた‥というより、そのドアノブにそっと手をかけた頃の話しからはじめよう。
勿論、その時はあくまでも聴くものとしての音楽でしかなかったけれど。

ともあれ、まずは “映画アメリカン・グラフィティ” の話しをしよう。

 其の一 映画「アメグラ」 

映画のあらすじは、ハイスクールを卒業していく若者の旅立ちと別離をあっさりと描きつつも、4人の主要人物の日常をそのまま切り取った、夏もようやく終わろうかというある一晩の物語である。
全編を通して展開される “何気なさ” が、この映画に普遍と共感をもたらした最大の魅力で、また、だからこそオールディーズをふんだんに盛り込んだサウンド・トラックがBGM以上の役割を果たしたともいえる。

映画の冒頭、暮れてゆく空を背景に、Melsという登場人物たちが三々五々集まって来るドライブ・インが映し出される。
突如、4拍目のスネアが2発「タタンッ!」と鳴ってビル・ヘイリーが♪ロック・アラウンド・ザ・クロックを歌い出す。
彼のコメッツがビートを刻み始めると、もうそこは旧き良き時代のアメリカだ。
いや、アメリカだけではない、日本だっていいのだ。
少しばかりの想像力さえあれば、誰にだってあった “あの頃” なのである。
それは、この映画を初めて観た時に、まだほんの13歳だった僕にさえ感じとることの出来た
ノスタルジーだった。
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低予算だったにもかかわらず、映画はアメリカ全土で大ヒットを記録した。
世相からカルチャーまでをも含め、あまりにも急ぎ足で駆け抜けた60年代。
愛と平和を歌い、叫んだところで一向に終わる気配のない戦争など、時代も人々もすっかり疲弊してしまっていた70年代初頭。
ふと振り返った時「あの頃は良かったな‥」と心によぎった郷愁。
“ノスタルジー” は時代が呼び寄せた必然であった。

 其の二 選ばれた41曲

サウンド・トラック盤に収められた全41曲は、一番古いもので1953年にリリースされたソニー・ティルとオリオールズの “♪涙のチャペル” そして一番新しいものでは1964年にリリースされたビーチボーイズの “オール・サマー・ロング” となっている。
1964年というのは、ロックの歴史を見た場合、一つの区切りとなった年だ。
勿論それはビートルズがアメリカ上陸を果たした年であり、その後のブリティッシュ・インヴェイションによってアメリカのアーティストが苦戦を強いられはじめた年でもある。
ラジオから流れてくるすべてのヒット曲を、まだ “ロック” とは呼ばずに “ポップス” と呼ぶことのできた時代のラブソングや楽しい曲ばかりが収められている。

今、市販されているDVDの特典映像、“ メイキング・オブ・「アメリカン・グラフィティ」” の中の
インタビューで、監督/脚本を担当したジョージ・ルーカスは、「私自身ロックンロールの中で育ち、その変遷を目の当たりにしてきた ~ 私はどのシーンも音楽を思い浮かべながら脚本を書いた」と語っている。
そして、サウンド・モンタージュを担当したウォルター・マーチも「ルーカス監督は、お姉さんの50年代後半~60年代初めのドーナツ盤を、古いプレーヤーで聞きながら、それに合わせた脚本を書いた」と語り、さらにまたジョージ・ルーカスが「高校時代から集めた大コレクションがあってね、曲を選んではどんな場面かを思い浮かべ、台詞を書いていった」と振り返っている。

その時代を過ごした当事者であり、また相当なレコードコレクターでもあったジョージ・ルーカスが自由奔放に選んだ全41曲。
このラインナップは、その後に一つのジャンル(!?)として確立していった “オールディーズ ” に、それまでにはなかった “奥行き” や、“深み” を持たせていくこととなる。
日本に於いては、特にその選曲が画期的だったといえるだろう。

アメリカン・グラフィティが公開された1974年以前の日本に於ける50年代後半から60年代初めの、所謂、ビートルズ登場以前の音楽に対する凡その認知といえば、ポール・アンカの “♪ダイアナ” であり、エルビス・プレスリーの “♪監獄ロック” であり、トーケンズの “♪ライオンは寝ている” ニール・セダカの “♪悲しき慕情” などであったろう。

さらには “和製ポップス” という、甘口のオールディーズ・ポップスに訳詞を付けて日本人の歌手によって歌われた多くのカバーヒットが、かの時代を振り返った時に想起される、それでも一応はロックンロールと言っても憚られない曲などであった。
中でも、中尾ミエが歌った “♪可愛いベイビー” や、田代みどりの歌った “♪パイナップル・プリンセス” などは、それがコニー・フランシスやアネットのカバーであったことを、今では誰もいちいち説明などしないし、それがなんであれ、もうこれらの曲はほぼ 邦楽と化している。
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そんな認知の状況の中へ、突然アメリカン・グラフィティのサントラ盤が現れて
「本当はそんなんじゃないんだよ」と、告げたのではなかったか。

大袈裟に言えば、日本に於いてのロックンロールの定義に修正を加え、また、 “オールディーズ ” という新ジャンルに、アメリカン・グラフィティが新たに持ち込んだものとは、黒人のコーラスグループによる “ドゥーワップ” だったのではないか‥、というひとつの推論を立てることもできるだろう。

 其の三 Oldies but New genre !

黒人と特に限定することもないが、要はコーラス・グループである。
僕の勘定では、収録された41曲中23曲はコーラス・グループのナンバーが収められている。

有名なところではザ・プラターズ(♪オンリー・ユー/煙が目にしみる/グレイト・プリテンダー)
他にファイブサテンズ(♪トゥ・ジ・アイル)フラミンゴス(♪瞳は君ゆえに)フランキー・ライモンとティーネイジャース(♪恋は曲者)など。

と、書きつらねたところで、ファイブサテンズやフラミンゴスの名前を知っている人が世間にどれくらい存在しているのだろう。
4~5年前に、地上波の深夜映画で「ホワイ・ドゥ・フールズ・フォーリン・ラブ('98米)」という、フランキー・ライモンの伝記映画が突然放送されたことがあった。
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所謂、一連のアーティスト伝記物で、レイ・チャールズの「Ray('04米)」やボビー・ダーリンの「ビヨンドtheシー~夢見るように歌えば~('04米)」と同質の、それなりに面白い映画ではあった。
ただ、この時も「一体‥誰がフランキー・ライモンを解るというのだろう‥」という思いは、結局最後まで頭に引っかかったまま映画を見終わった記憶がある。

予測の域を出ないが、アメリカン・グラフィティが日本で公開された時点で、そのグループ名を認知されていたのは、せいぜいプラターズくらいだったのではないか。
“♪オンリー・ユー” という大ヒット曲は、日本ではポップスのスタンダードとなっていたし、何より1961年、1963年と来日して、テレビ出演も果たしている。

ただ、このプラターズが “ドゥーワップ” のカテゴリーに入るかどうかは判断の分かれるところだが、彼らが多少なりとも有名であったことを示す一つの例として、1992年にフジテレビの “ものまね王座決定戦” という番組にビージー・フォーと一緒に、“ご本人登場” という形ではあったにせよ共演し、その健在ぶりを日本の茶の間に向けて、ゴールデン・タイムにオン・エアーされたこともあった。
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本題からは逸れるが、件の「ホワイ・ドゥ・フールズ・フォーリン・ラブ」という映画で、フランキー・ライモンと、このプラターズの紅一点のメンバーだったゾラ・テイラーが結婚していたことを知った時は軽い衝撃を受けた。
もっとも、フランキー・ライモンにとっては他にも二人の妻がいて、三重婚状態だっため「オンリー・ユー」とは、よもや言えず「恋は曲者」のタイトルそのままに実人生を生きて26歳で夭折した。
“♪恋は曲者” の耳に残る一節、「Tell me why?」は、もはや残された三人の未亡人の言葉となった。

ともかく、アメリカン・グラフィティのサウンド・トラック盤は、日本に初めて “ドゥーワップ” というものを広めるきっかけになった。
その影響をもろに受けた世代だったシャネルズが、数年後にデビューを果たした時、その音楽スタイルの名前を “ドゥーワップ” として紹介され、ようやく日本でもドゥーワップは広く知られることとなった。
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そして、ここで注意しておきたいのが、もしもこの時に、シャネルズが顔を靴墨で黒く塗り、暗に黒人を模倣しているというバンド・コンセプト上のメッセージを発していなかったとしたら、おそらくそれは単に “シャ・ナ・ナ” のような、“クールス”のような、一つのロックンロール・バンドの似たような別の “かたち” としての認知に終わってしまったで “あろう” 、という味気ない推測もできるのだ。
(※シャ・ナ・ナとは、1969年にニューヨークで結成された、オールディーズをレパートリーとしたパフォーマンス集団のようなバンド)

“シャ・ナ・ナ” や、“ドゥーワップ” については、また後の項で徹底的に書こうと思っているので、サウンド・トラック盤アメリカン・グラフィティの、もう一つの側面である、ドゥーワップ以外の曲についても少し触れておこう。
ソロ名義のアーティストや、白人のロックンロールやバラードを歌った歌手などについて。

 其の四 アメグラ前夜 

この場合も特に有名な曲といえるものは見当たらない。
異論はあると思うが、あくまでもそれは1974年当時の、世間一般での認知なのだから仕方ない。

チャック・ベリーの(♪ジョニー・ビー・グッド)や、バディー・ホリーの(♪ザットル・ビー・ザ・デイ)など、今では相当に知れ渡っているこの2曲にしても、この日本に於いてはオールディーズ・リバイバルによって日の目を見たのであり、彼らの名前は、例えばビートルズの曲のオリジナルを歌ってた‥や、ローリング・ストーンズ、リンダ・ロンシュタットの曲のオリジナルを歌ってた人‥くらいのものとして認知されていたにすぎない。

ここに一冊の雑誌がある。
“ライトミュージック” という、邦楽を中心に扱った、やや軽い手触りで読めるヤマハ音楽振興会という出版社が発行していた音楽雑誌だ。
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その1973年5月号に興味深い記事を見つけたので抜粋してみる。
映画アメリカン・グラフィティが日本で公開される約一年半前のオールディーズに対する認知のされかたが、そこにははっきりと書かれている。
大枠の見出し「’73年をリードするニュー・サウンドの現状報告~ “爆発するか日本のロックン・ロール” 」の中の「帰りついたら、またもロックン・ロール」という小見出しから。
以下。

■世の中何と忙しいのでありましょう。今度はロックン・ロールの番であります~(省略)~新しがり屋さん達は、する事なくなり聴くものなくなり、遂に、美しくもまた懐かしいロックン・ロールが、咲き乱れ飛んでおります。チャック・ベリーさん、ファッツ・ドミノさん、エディ・コクランさん等、お墓の中できっと、骨ちゃんカタカタと喜こんでいられる事でしょう。(原文ママ)

この文章を書いたのは、今や日本ではゴスペル歌手としても知られている亀淵友香である。
勿論、上に抜粋したのは原稿の中のほんの一部だ。
元ニッポン放送・代表取締役社長・亀淵昭信を兄にもち、またその兄が当時、洋楽のポップスに造詣の深いことでも知られていた同局のアナウンサーであり、人気のディスク・ジョッキーでもあったことによる執筆依頼だったのではないかと思う。
小見出しに “帰りついたら” とあるように、前年の72年にロスアンゼルスで、このオールディーズ・リバイバルの空気を直に体験してきたことも、この亀淵友香氏への原稿オファーへと繋がったようだ。

だが、何よりも、この “ニュー・サウンド(ロックン・ロール)” を読者に紹介するのに、専門家のような人選では “感覚” が伝わりにくいのだ。
照れ隠しでふざけているような、どこかディスク・ジョッキーがしゃべっているような筆運びは、まだ海のものとも、山のものともつかない “オールディーズ” への腰のひけた感じがある。
文中 、チャック・ベリーやファッツ・ドミノが、もう鬼籍に入ってしまっているかのような記述があるが、これはべつに彼女が無知なわけではない(チャック・ベリーもファッツ・ドミノも2011年現在まだ生存している※エディ・コクランは1960年に死去)、今風で言えば「ざっくり」であり、旧いものが復活したことを表現した一種のレトリックともとれる。
つづく記述には、前年に体験したそのロック・フェスティバルでのこんな一文もある。
以下。

■私メが昨年、ロスアンゼルスで見たロック・コンサートでも、出て来るグループ全部といっていい程、ロックン・ロールを演奏するのですが、客達がいっせいに乗りに乗ったのはシャナナとチャック・ベリーの時だけでした。(原文ママ)

前の年にはチャック・ベリーを生で観ているのだ。

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この特集はその後ページをとばして、より深く踏み込んで、ロックンロールの具体的なアーティストや簡単な歴史、また、その時点で国内で入手できるオールディーズのレコードを河村要助の文章とイラストで紹介している。(すごく贅沢だ!)
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そして、河村要助氏の記述にもこんな一文があった。

■急に盛んになったロックン・ロール・リバイバルのおかげで、実際にはどの位の数の人がそのレコードに親しんでいるかは知らないけれど、ともかく、チャック・ベリーの名前は有名になってしまったし、そして何よりも古いロックン・ロール・ヒットのレコードの発売がブームになって来た事など、2、3年前を考えると全く嘘みたいな気がするのである。

やはりチャック・ベリーは無名だったのだ。

参考までに、この河村要助氏による記事の最後に、写真付きで掲載されている入手可能だったレコードの中から、オムニバスを除いた、アーティスト単独でのアルバムのみを列記しておこう。
ロイ・オービソン、ジェリー・リー・ルイス、チャック・ベリー、エディー・コクラン、バディー・ホリー、フォー・シーズンズ、ボビー・ヴィントン、ジーン・ヴィンセント、ビル・ヘイリー、ロイド・プライス、リトル・リチャード、デル・シャノン。
この他に9組のアーティストが活字のみで紹介されている。
おそらく、これがその当時入手できたオールディーズのレコードの “すべて” だったのではないか。
そして、その殆どがベスト盤である。

たったのこれだけなのだ。
だが、逆説的に言えば “だから!” アメリカン・グラフィティのサウンド・トラック盤は “すごかった!” のだ。
この状況は当然、輸入盤専門店のレゾンデートルを高めたし、 “愛好家” と呼ばれる一部の人間を生み出すことにもなった。
その代表格がミュージシャンの大滝詠一や山下達郎、イラストレーターの湯村輝彦、そして先に登場した河村要助などである。

数年後にバブル景気を向えるまでは、50年代や60年代のレコードはごく限られたアーティストのものしか手に入らなかった。
故に、それに傾ける愛情も深かったとも言えるが、例えばリンク?レイのLPが数種類も棚に並んでいたり、フィル・スペクターのロネッツ夜明け前の音源が簡単に手に入れることができたりするような、ある意味虚しい物の氾濫はまだまだ遠い未来の話しなのだ。

 其の五 チャートは語る


では、本国アメリカではいったいどういった認知のもとで、これらアメリカン・グラフィティに収められた41曲は捉えられていたのだろうか。
ビルボードの年間トップ40と、週間トップ10チャートをもとに、いくつかを列記してみたい。

件のプラターズ(♪オンリー・ユー)は、■1955年に最高位は5位で、年間チャート17位を記録している。
(♪グレイト・プリテンダー)は翌年の■1956年に最高位1位、年間チャート15位を記録。

■1959年には、(♪煙が目にしみる)でチャート1位を獲得。年間チャートでも8位。

この時期のプラターズは、アメリカン・グラフィティに収録された3曲のほかにも、♪The Magic
Touch(4位)♪My Prayer(1位)♪You'll Never Know(11位)♪It Isn't Right(13位)♪I'm Sorry(11位)♪Twilight Time(1位)♪Harbor Lights(8位)(※カッコ内は週間チャートの最高位)と、シングル盤を出せば殆どがヒットするといった状況だった。

これは、マネージャーでもあり、ソングライターでもあったバック・ラムという人物の手腕によるところが大きかったが、リード・シンガーだったトニー・ウィリアムスの抜けるような声や、毅然とした歌い方、そしてグループの持つ “品の良さ” 無しには果たし得なかった快挙だろう。

“アメ・グラ” が、所謂 “一般受け” したのは、このプラターズや(♪シー・ユー・イン・セプテンバー)を歌ったテンポスなど、どこか健全さを感じさせるグループが時折顔を出して、安易なロックンロール映画になるのを防いだからではないか。
そして、ジョージ・ルーカスがSF・映画の巨匠である前に、一人の “音楽通” であることを証明しているのは、このあたりのグループが収録されていたからに他ならない。

■1957年は、ダイアモンズの(♪リトルダーリン)が、年間チャート21位で最高位は2位。

バディ・ノックス(♪パーティー・ドール)年間チャート19位。最高位は1位。

そして、バディ・ホリーの(♪ザットル・ビー・ザ・デイ)は同チャート20位、最高位はこちらも1位。

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映画の中で不良役を演じたポール・ルマットが、ビーチ・ボーイズの(♪サーフィン・サファリ)が流れてくるラジオをおもむろに消して言った台詞

「I don't like that surfin' shit , Rock and roll 's been going down hill ever since Buddy Holly died.」

直訳すると

「オレはサーフィンなんて好きじゃない、バディ・ホリーが死んでからずっとロックンロールは下火になった」

であり、現在市販されているDVDの日本語字幕では

「サーフィンは好かん、ロックはバディ・ホリーまでだ」

と、なぜか関西弁のように訳され、特にバディ・ホリーが死んだことについては触れていない。
(バディ・ホリーは1959年に飛行機事故により死去)
だが、一般的にはこんな台詞として記憶されている。

「バディ・ホリーが死んでロックンロールは終わった」

これは伝言ゲームのように、いつの間にかこうなってしまったのか、それとも公開時やその後のリバイバル上映の際の字幕がこうであったのかは定かでないが、僕にしてもこの強いメタファーの台詞で記憶してきた。
「サーフィンなんて好きじゃない‥」との対比によって、より強調されたこの台詞は、いつしかバディ・ホリーを、まるでロックンロールの殉教者のように、どこか崇高なイメージへと変えていった。
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リトル・リチャードやエルビス・プレスリーの楽曲のように、パッ、と聴いた時に決して単純には響かないバディ・ホリーの楽曲を、この印象深い台詞「バディ・ホリーが死んで‥」を反芻し
「バディ・ホリーってそんなにすごいのか‥」と、耳を傾けた音楽ファンも少なくないだろう。

■1958年、ダニーとジュニアーズ(♪踊りにいこうよ)は、堂々の年間チャート第1位を記録。
ただしこの曲は劇中歌として、体育館で行われた新入生の歓迎パーティーのシーンで、70年代に活動していたフラッシュ・キャデラックとコンチネンタル・キッズによって演奏され、サウンドトラック盤にもそのまま収録された。
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この年は他に、シルエッツの(♪ゲット・ア・ジョブ)が年間チャート15位、最高位1位を記録。
これは特筆に値すべきことで、ビルボード・チャートで黒人アーティストが1位を獲得することがまだまだ珍しかったこの時代、特に白人層におもねった楽曲でもない♪ゲット・ア・ジョブが1位を獲得した事実は、黒人アーティストによる “真っ当な” ドゥーワップ曲が初めてチャートのトップに立ったということも同時に意味している。

ふたたび■1959年に目を移すと、この年の年間チャート20位にはクレスツの(♪16本のローソク)が入っている。最高位は2位。
他にはスカイライナーズの(♪シンス・アイ・ドント・ハブ・ユー)が、週間チャートで最高位12位。
や、フラミンゴスの(♪瞳は君ゆえに)が同チャート最高位11位を記録している。
先にも書いたプラターズの(♪煙が目にしみる)など、ドゥーワップのバラードの名曲が多い年であった。

■1960年は、ジョージ・ルーカスが16才を迎えた年になる。
マーク・ダイニングの(♪ティーン・エンジェル)がチャート1位を獲得している。
アメリカン・グラフィティのサウンド・トラック盤を聴き親しんだ人には、それこそ今迄に何人にも会ってきたが、このマーク・ダイニングの♪ティーン・エンジェルについて語った人間には一人も出会わなかった。
“アメグラのサントラ”の 選に掬いあげられた名誉ある曲の中にあって、この曲ほど愛されなかった曲もないのではないか‥そんなことを思うのは僕だけだろうか。
それでもアメリカでは堂々のチャート第1位で、年間チャートでも5位と大ヒットを記録している。
所謂デス・ソングと言われる “死” をテーマにして書かれた歌詞がヒットの要因だったのではないかと思う。
内容をごく簡単に説明すると、
「16才のガールフレンドや仲間たちと一緒に車に乗っていたところ、車が線路で立ち往生してしまい、列車が近づいてきたので皆は逃げたのだが、そのガールフレンドは車内に残したハイスクール・リングを取りに引き返してしまい、死んでしまった」
といったような内容である。
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アメリカン・グラフィティには収録されていないが、やはりこの年にレイ・ピーターソンが歌った(♪ローラに好きだと言ってくれ)というデス・ソングがヒットしている。(最高位7位※僕もストライクスで歌い、録音もした)

他にはジョニー・バーネットの(♪夢見る16才)が、週間チャートで8位を記録している。
やはり、ルーカスは “16才” にこだわったのだろうか。

ハードなロカビリアンだったジョニー・バーネットが、ソロ歌手として再スタートを切ってリリースした
♪夢見る16才は、結局彼のキャリア・ヒットとなった。
古い映像で、生演奏をバックにこの曲を歌うバーネットを見たことがあるが(指揮はボビー・ヴィントンが執っていた)、愁いを帯びたジェームス・ディーンのような表情で、アイドル歌手のようになってしまった自身に少し照れるように歌うバーネットの歌の上手さに驚いた。
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曲を作ったのは、件の♪パイナップル・プリンセスや、メリー・ポピンズ、それに東京ディズニー・ランドでも馴染み深い♪イッツ・ア・スモール・ワールドなど、ディズニー関連の曲を手がけたシャーマン・ブラザースである。
邦題の「夢見る‥」ではないが、そんな手触りの曲ばかりを得意とするシャーマン・ブラザースの楽曲を、元ボクサーだったジョニー・バーネットがニヒリスティックに歌っている。
このコントラストの妙が実に秀逸だ。

■1961年はデル・シャノンの大ヒット曲(♪悲しき街角)が年間チャート3位。最高位は1位で4週間連続で記録。
他には、リー・ドーシーの(♪ヤー・ヤー)が最高位7位。
この曲は、所謂 “ニューオリンズR&B” といわれるもので、アメリカン・グラフィティに収録されたファッツ・ドミノの(♪エイント・ザット・ア・シェイム)や、リトル・リチャードなどもそう分類されることがある。
ニューオリンズR&Bは、50年代中頃から60年代前半まで、いつでもヒット・チャートのそこかしこにその足跡を発見することができた。中でも、アラン・トゥーサンという人物が関わったアーティストたちは、特に重要とされている。このリー・ドーシーが歌ってデビュー・ヒットとなった♪ヤー・ヤーも、アラン・トゥーサンのプロデュースによるものだ。


■1962年はジョイ・ディーとスターライターズの(♪ペパーミント・ツイスト)年間チャート5位で最高位は1位。ブッカーTとM.G'sの(♪グリーン・オニオンズ)年間チャート38位。最高位は3位。

ジョイ・ディーとスターライターズというバンドには、一時期メンバーとして在籍し、その後に名を成したミュージシャンが数多くいる。
ジミ・ヘンドリックスやラスカルズのフェリックス・キャバリエを含む3人のメンバーなどがよくそうだと言われている。

だが、何よりも僕が一番ひっかかっているのは、このバンドにジョー・ペシが在籍していたことがあったという事実だ。
ジョー・ペシというのはアメリカの俳優で、マーティン・スコセッシやロバート・デニーロ絡みのマフィア映画などには必ず顔を出す名脇役だ。1990年の、やはりマーティン・スコセッシが撮った “グッドフェローズ” という映画でアカデミー助演男優賞を受賞している。
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右端の背の低い人が Joe Pesci

ジョイ・ディーとスターライターズに関わったミュージシャンは殆どがイタリア系のアメリカ人である。
今ここにざっと列記した名前も、ジミ・ヘンドリックスを除いて、すべてイタリア系アメリカ人だ。
このイタリア系アメリカ人が織りなす雑多なさまざまな話しは、いずれこの「トービージーマに於ける芸術的または肉体的栄光と挫折」の中で書くことになるが、もう一つ頭の隅にひっかかっているのが、マーティン・スコセッシが撮った “ミーン・ストリート” という映画のことだ。
Mean Streets poster

アメリカン・グラフィティと同じ年の1973年に公開されたこの映画も、映画の冒頭、唐突にロネッツの♪ビー・マイ・ベイビーが流れる。
それは不思議な美しさを持ったオープニング・シークエンスで、♪ビー・マイ・ベイビーが本来持っているドリーミィな、またはファンタジックな歌世界は、一歩間違えば合成着色料にまみれた、いつまでも口の中に残るバブルガムのような、安っぽさと表裏一体であることを暗示させていた。
アメリカン・グラフィティほどじゃないにせよ、やはりこの映画のサウンド・トラックにも、マーヴェレッツや♪ラバー・ビスケットを歌ったドゥーワップ・グループのチップス、ローリングストーンズ等、オールディーズが何の関連性もなく使われている。(物語の舞台設定は’73年時点の現在である)
この “ミーン・ストリート” の主演はハーヴェイ・カイテルで、脇役がロバート・デニーロ。
“タクシー・ドライバー” の主役と脇役を入れ替えたキャスティングである。
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若きデニーロは終始MODSにしか見えない

まるで “アメリカン・グラフィティ” のチンピラ版のようなこの青春映画のテイストは、数年後にクエンティン・タランティーノによって再現されることになる。

スコセッシ得意の “マイノリティー目線” から耳に響いてくるオールディーズの効果は、ある意味で “オールディーズ” や “リバイバル” の持つダブル・ミーニングの一方をあからさまに示していた。

それは、ただ “懐かしさ” や “なぞった” だけで表現手段としてしまうのか、それともこの “ミーン・ストリート” のように、そこに何かしらのサムシングを添えて、表現者のオリジナリティのための手段としていくのか、といったテーゼである。

僕はコピーバンドを卒業して、オリジナルの曲を作り始めた16才の頃から、この後者たろうとしていたし、でなければ音楽における悩みなどは皆無だっただろうと思う。
話頭がこっちへ転がったので、ついこんな話しになったが、それはまた後の稿に譲るとして。
映画アメリカン・グラフィティは希有な例で、初めは前者でしかなかったものが、時が経つにつれて後者をも孕んだ作品になった。
この2作品が同じ年に公開されたことは、簡単に見過ごせないほど、僕にとっては興味深いことなのだ。

今一度、ジョイ・ディーとスターライターズの♪ペパーミント・ツイストに話しを戻せば、この曲は1962年に起こったダンス・ステップ “ツイスト” の大流行にのって、チャビー・チェッカーの♪ザ・ツイストとならんで大ヒットを記録した曲だ。
アメリカン・グラフィティからは他にもダイアモンズの(♪ストロール)やボビー・フリーマンの(♪踊ろうよベイビー)などのダンス曲がある。

日常の中にダンスを踊る状況が頻繁にあったアメリカならではのヒット曲だからか、僕にはこの♪ストロールと♪踊ろうよベイビーの良さがピンとこない。
それでもアメリカ人は、この♪踊ろうよベイビーが相当に好きなようで、ビーチボーイズやママス&パパスなど、この曲をカバーした例はいくらでもある。

ただ、♪ペパーミント・ツイストとなると話しは別だ。
この曲にしてもそこまで好きと言った訳ではないが、ようく耳を傾ければ♪ペパーミント・ツイストのバンド・アンサンブルはかなりかっこいい。
「いきっぱなし」と言えばいいだろうか、リズムがいちいち着地しないのだ。
ストライクスの時分、♪Thunderbirdという曲を作った時、スタジオでメンバーに「リズムは♪ペパーミント・ツイストで」と言ったものだ。
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ジョイ・ディーのことで気になることをもう一つ。
まったく関係ない話しだが、彼は頭がとてつもなく大きい。
ロックンロール界ではカール・パーキンスも相当に頭が大きいが、ジョイ・ディーの比ではない。
暇な人は一度確認してみてほしい。

ブッカーTとM.G'sの♪グリーン・オニオンズは、41曲中、唯一のインストルメンタル・ナンバーだ。

こうして見てくると、サウンド・トラック盤アメリカン・グラフィティは、この時代の殆どのタイプのヒット曲が収められている。
所謂 “インスト曲” “ニューオリンズ・サウンド” “ダンス曲” “ドゥーワップ” “サーフィン” “デス・ソング” “ロックンロール ”等。

一つ何かが欠けているとすれば、 “ガール・グループ” が1曲もないことに気づく。
それどころか、女性がリード・ボーカルをとった曲が1曲もないのだ。
このことに特に意味はないと思うのだが、シュレルズや、♪メイビーを歌ったシャンテルズくらいなら入っていても不思議ではなかったろう。

 其の六 ゼロ哩地点

中学生当時、よく原宿に行ったことは以前にも書いたが、そこで見かけた所謂 “ローラー” と呼ばれる人たちが、まだキディー・ランドの前あたりで踊っていた頃、ラジカセから流れてくる曲がアメリカン・グラフィティのDISC One、そのA面1曲目のビル・ヘイリーと彼のコメッツの(♪ロック・アラウンド・ザ・クロック)と、同じくA面7曲目のフラッシュ・キャデラックとコンチネンタル・キッズによって演奏された(♪アット・ザ・ホップ)ばかりを交互に録音したものだった。

この2曲は “アメ・グラのサントラ” の中にあって、飛び抜けて愛され、様々な場所でかけられ、また、にもかかわらず、あまり語られることの少ない曲でもある。

敢えてここまで書かずにきたが、次回は特に「ビル・ヘイリーの♪ロック・アラウンド・ザ・クロック」について書こうと思う。
勿論それだけではなく、その他の雑多な自分のことや、日本でのロックンロール、また “オールディーズ・リバイバル” が起こった状況などについても。

先日、これを書くにあたって、自分が映画アメリカン・グラフィティを何時、何処で、初めて観たのかが知りたくなり、いてもたってもいられなくなり国会図書館へ行って来た。

当時の “ぴあ” を数十冊閲覧し、ようやくその “在処” を見つけた時、胸に去来した一つの感慨は、どこかチャールトン・ヘストンの映画 “猿の惑星” のラストシーンのようだった。
自分にとっての出発点であり、ゼロ哩地点であったのは「やはりこれだった‥」と、砂に埋まった “Mels drive-in” を脱力とともに眺めたのだった。

〔1980年 2月16日(土)飯田橋 佳作座 1:05~2:55
 同時上映 天国から来たチャンピオン    ¥500  学生¥400〕

中学2年の三学期、13才の時のことだ。 


最後に、次回の予告編のような、まとめのようなものを書いて、この筆を置くことにしよう。

少し粗い論考ではあるが、日本に於いてはこの映画アメリカン・グラフィティこそが、キャロルに始まるその後のジャパニーズ・ロックンロールの連綿と続いていく大きな流れの源流であり、また、 “ノスタルジー” も一つの文化概念足り得るという “保証” をもたらした “ゼロ哩地点” であったと思う。

映画アメリカン・グラフィティが日本で公開されたのが1974年の12月。
そしてキャロルがシングル♪ルイジアンナでデビューしたのはそれよりも2年も早い1972年の12月であった。
ではなぜアメリカン・グラフィティをそのゼロ哩地点に定めたかと言えば、先にも書いたとおり、“キャロル” という一つのバンドが一過性のノスタルジーでは “なく!”
堅い言い回しになるが、音楽の真理をそこに内包したまま、今日の認知に至るための必要不可欠な状況を整備していたからだ。
これは殊に重要なことで、ここで僕が言う “音楽の真理” とは、詳しくは後の項に譲るが、一言でいえば
「独りよがりなファッション」では無かったということである。
映画アメリカン・グラフィティもキャロルも、その後にくり返し、くり返し観られたり聴かれたりしていったことで、誕生した時の手触りとは全く別の地点へとたどり着いたことを考え併せてみれば、そのことを理解できるはずだ。

一昨年にヤングフォークスが出演したイベント “第18回ヨコハマ ホットロッド・カスタムショー” には
アメリカン・グラフィティに脇役で出ていたキャンディ・クラークという女優が “豪華ゲスト” として招かれていた。
candy_clark_american_graffiti.jpg

映画公開から40年近くの時が経過したにもかかわらず、今だに脇役の女優がはるばる日本までやって来て、サイン会や記念撮影をするだけで、ちょっとしたビジネスになってしまうのである。

またキャロルは、矢沢永吉本人がどう捉えているかなどは全く吟味されずに、今でもファンの間では絶対にはずせない矢沢永吉の一部であるし、その結成から解散までについてようやく語ったジョニー大倉の著作本が近年相次いで二冊出版されるなど、今もってその栄光の像は除幕に至らないのである。

ここまで読んでくれて、ありがとう。
ではまた次回。
♪ ♪ ♪ ♪ ♪ Sittin' in my car outside your house ~




というわけで、家にある3つ?3枚? ‥とにかく掛けたり貼ったりしてあるカレンダー‥
全部!6月のまんまでやんの!でお馴染みの「よしを‥だもの」でしたー!
ヒューヒュー!

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2011-07-15 : 小林ヨシオblog : コメント : 2 : トラックバック : 0
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2011-07-19 12:18 : : 編集
Re: Re: No title
> Hi!
> n○○○○o!
>
> ‥さん!
> ‥ちゃん!
> ‥君!
>
>
> あ~ぁ‥
> 見つかっちゃった~!
>
> って返しになるよね!
>
> コメントありがとうね!
>
> 今、テーブルに両足のっけて無理な体勢だけど‥
> このままの状態で確認できるの
>
> CD棚の上のルーシー
> テーブルの上のカップのスヌープー・マグカップ(これとおんなじの7ヶあんの!)
> また別のCD棚にもスヌープー
>
> ではまたー!
2011-07-22 07:28 : The Young Folks URL : 編集
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Author:The Young Folks
FOLK ROCK.COUNTRY BAND。Bob Dylan、The Byrds、The Lovin' Spoonful、PP&M、Eagles、The Band etc.カバーセッションを経て現在はオリジナル曲中心にステージ構成。時にエレクトリック、時にアコースティックとフレキシブルに活動中!

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